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注目

脳卒中になって、片麻痺になった。〜その2「診断まで」

2,結局何だったのか? いわゆる脳卒中です。わたしも脳卒中ってお年寄りがよくなって命を落とす病気くらいの知識しかなかったんです。年齢は関係ないそうです。脳卒中は脳の血管が切れる脳出血と、脳の血管が詰まる脳梗塞に大きく別れます。脳出血は、脳溢血という言い方もありますね。脳溢血はなんとなくその後に享年〜と続く気がするのは気のせいでしょうか。私は脳出血のうち割りとポピュラーな被殻脳出血というやつでした。出血は右脳でした。この右左どちらが出血対象かによって、その反対側の半身に影響がでるそうです。 脳卒中については こちら を見てください。 3,なんか予兆はあったのか? こんな病気になったのに、なんか前から辛かったんじゃないの?、無理するから・・・と言われましたが、実は明確には全然ないんです(笑)。でも今思えば因果関係はあったかなということを。 ・高血圧の傾向はあった。 2年位、血圧の測定で、140となり、医者に行ってくださいと言われました。ほらーと言われますが、指摘されて病院に行くと120位なんですよね。高血圧の治療って、血圧を下げる薬を死ぬまで飲み続けるってことしかないので、医者でも「うーん微妙だね」と言われるほどでした。これがまず良くなかったですね。今思えばですが。 ・夏前から慢性的に頭痛があった。 頭痛というか肩こりと合わせた頭痛があり、バファリンを常用していました。といっても痛いなと思ったら飲む。飲むと痛みが消えるといった感じです。 ・寝不足だった。 睡眠時間が、いろいろなことが重なり少なかったと思います。肝臓などの数値も悪かったです。これらを夏バテということで自分の中では結論づけていたというのが正直な所です。でもそうではなかったんですね。 ・寝る前に無酸素運動をしていた。 寝る前に、スクワットや、腹筋、背筋をやっていました。これは息を止めてしまう無酸素運動で良くないそうです。 4,ところで痛みはあったのか? ここまで私、痛みのことを何も書いていませんが、不思議に痛みはなかったんです。でもこれは私のタイプの被殻外脳出血でのことであって、例えば有名なくも膜下出血は、金属バットで殴られたような痛みがあるそうです。私は幸いにも金属バットで殴られたことはないのでわからないですが、おそらく相当痛いのでしょう。出血したーという意...

3月11日~12日 東日本大震災の帰宅困難者の記憶

忘れないように、記憶のために、記述していく、

3月11日(金)
仕事はなく、静かな一日だった。一日、書類作業とすでに走りだしているプロジェクトの確認を行い、定時に帰宅できる、いつもの週末になるはずだった。

ディスプレイに向かっていて、電話を終えていると、数人が上を向いている。照明がゆれているのだ。
「あれ?」
と思うと同時に、また東北の地震かなと思った。ここのあところ、岐阜あたりと南東北を震源とする小規模の地震が何度かあったため、またそれだと思ったのだ。

うっすらとした横揺れがあり、それがだんだんと大きくなってきた。このビルは経験的にはゆれを感じ易いために、しばらくは驚くこともなくそのまま仕事を続けていた。そして、不謹慎にも他のデスクについている同僚と顔を見合わせ照れ笑いをしている。なんであんなときに笑ったんだろう。

「なんか長いよね」
そう、時間の長さのほうがまず気になった。そのうちに、地震は収まるどころか、シェイク!という感じになり、ミシミシ音が聞こえてきた。照明の根元にある留め金が全て落ち、大きく揺れる。

「うわっ」
と思い、これはただごとではないと、机の下に潜り込んでみる。この段階でもまだ、半分くらいは仕事を続けており(!)、なんか恥ずかしいかなという感じがした。デスクには買ったばかりのiPadがあり、あ、割れちゃう!なんて思って手を伸ばして机の下に潜りこんだ。案外余裕がある。

揺れていく中で、これは大変なことになったと思った。地震は東北ではなく関東に近いところだと直感したのだ。オフィスにはテレビがなく、どこが震源なのかわからない。今までにない恐ろしさだった。

気分的には5分くらいだったように思うが、おそらく1-2分だったと思う。長い揺れが収まった。恐る恐る机の下から這いだすと、自分の机の書類が崩れていた。ガラスはフィルムを張っていたせいか割れることもなかったが、窓から外を持つと、近所の工場や店の人達は外へ出ている。さて我々は、というと、放送すらなかった。実はこの日は役職者がほとんど出はらっており災害時の管理者がいなかったのだろう。結局、外への避難とか一切なく、なんとなく不安を抱えたまま、定時まで仕事をした。しかし、個々人ではインターネットで震源、規模、都内の交通への影響などを考えていたと思う。

5時半になり、部長待遇の人が、電車が動いていないこと、帰れる人はなるべく早く帰宅することが伝えられた。自分は、駅まで様子を見に行くため外に出た。外は静かでいつもどおりなのが却って不気味なくらいだった。急に腹がへって、チェーンの中華料理店(なぜかやっていた)でなぜか中華丼を食べる。店は空いていた。しかし、その間も大きな余震があり、ここで中華丼と運命をともにするのは情け無いので、そそくさと食事をして駅へ向かった。どうやらチェーン店は、店長判断で店を閉められないため、営業を続けており、個人経営の店は、早めに店を閉めたようだ。

駅は報道通り、入場封鎖になっており、改札の前には数人が座ったり、電話をかけたり(かからないけれども)していた。これは駄目だと判断し、帰りにコンビニ型のスーパーに入った。まだすいていて、物不足もなかった。明日万が一歩くことを考えて、水のペットボトル(500ml)を2本、おにぎりを2個、お菓子を少々購入して事務所に戻った。成城学園へのバスは動いている。しかしタクシーは全くダメで、コンビニ前に止まって食事をしようとしていたタクシーが数人に拉致されて渋々あいのり状態で走っていったのを目撃した。

事務所に戻ると、まだ大部分がどうしたものかといたが、見聞きしてきたことを伝えて、数名が買い物や食事を済ますために飛び出していった。事務所から歩いて帰宅できる人たちは、手早く帰宅準備をして帰宅した。数名は、飲んで電車を待とうということで、駅の近くの飲み屋に飲みにいったようだ。田園都市線はよく人身事故がある。そういう時は飲みに行って2時間くらいやり過ごせばなんとかなるのだ。でもその日は違うだろうなとは思った。

私は早々に帰宅はあきらめた。自宅までは直線距離で60Km 近くあるし、まったく電車が動かないのでは乗り継ぎも不可能だった。歩いていける田園調布におばの家があり、そこにいこうかと思っていたが、同じような境遇の人もいる中で、自分だけ行けるわけもなく、突然行っても困るだろうとも思い、諦めることにした。

職場にはTVはなかったが、不思議なことにネットワークは全く生きていた。インターネットも生きていた。そして、携帯によるプライベートなインターネットも生きていた。これが大きな力になっていくのを思い知る。まず、NHKを見たいと思った。NHKのサイトは繋がらない。ふと思いついて、USTREAMで誰かが流しているのでは、と思いつないでみると果たしてNHKがダダ漏れしていた。以後、このNHKの放送が重要な情報源となっていく。この時閲覧者は3万7千ほどだったと思う。

電話で家内と連絡が取りたいと思った。しかし、ソフトバンクの携帯は全く繋がらない。これは深夜まで続く。会社の電話からもだめ。災害ダイヤルで伝えられるのではとやってみたが、東京は災害地域外なので使用できませんときた。これには本当に参った。おそらく東北を災害地域と認定し、混雑を回避しようとしたのだろうが、それは正しいけれども、この時点で全く役にたたないため、多くの人が電話をかけつづけていたと思われる。都内だけでそのころ10万単位の帰宅困難者がいたのではないか。何の役にも立たないことがわかった。

その後、家内とはメールで連絡がとれた。しかし、リトライを繰り返し、しかも届いたのはあとでわかったところ、1時間後という混雑ぶりだった。また家は停電しており、固定電話も使えない状態だった。この時点で家内と母と息子の無事は確認できたが、娘は上大岡で行方不明らしく連絡は取れていない。

一番頼りになったのはtwitterだった。twitterは普段はよく落ちて鯨が出るくせに、この時にはありえないほどのサーバーの強靭さを見せている。リアルタイムで全国各地から情報が入ってきていた。それによると、今日中の鉄道の復活はありえないとJRが宣言したこと。各地の乗り換え駅を中心にカオスになっていること。多くの人びとが徒歩で家に向かっていることなどを知った。

この間かなり大きな余震が続いていた。とてもではないが、自分の感覚では外を歩く気にはなれない。街頭も信号も停電をしているとのこと。これで籠城は確実になった。20時くらいに、代理の代理くらいの防災責任者の人がやってきて、食料(乾パン・水)と毛布の備蓄があることが伝えられ、今日帰らない人の人数が確認された。会議室が二つ男性女性別に就寝用で解放され、全館空調は続けるとのことがあり、ひとまず安心した。

この日はうちの部署は外出している人が多かった。新宿にいたチームは、twitterのDMで自力で帰宅する旨連絡があった。25km以上歩いて千葉まで帰ったようだ。渋谷のチームも直帰になっていたため、帰ったものと思ったが、やはり帰れなかったらしく、居酒屋で食事をしたあと、買出しをして、事務所に戻ってきて賑やかになった。外はバスは動いているものの、タクシーは捕まえられる状態ではない。歩くのもままならない混雑のところもあるそうだ。またこの時間にスーパーは入場制限をはじめていた。

毛布の配給がある旨放送があった。毛布は布団圧縮袋のようなものに入っており、数は十分。一人当たり2枚貰っていいとのことだったので遠慮無くもらう。そのかわり、コンビニがあいているのでという理由で、乾パンと水は配布されなかった。

このころには市原のコンビナートの火災や、石巻の火災の映像が入っており、これは大きな災害になっているという気分もあって、再び、NHKのUSTREAMをみんなで見た。
他の部署から、うちもテレビが見たいという申し出があり、古巣の事業部の席でUSTREAMを設定した。「テレビがないなんておかしいよな!」と言われつつ。TVでは、現地の少ない被害状況とともに、都心のシェルターの報道があった。聞いているうちに、どんどん大学やホールが帰宅困難者のために開けられていくのはすばらしい。しかし、本当に帰宅はきつかったようで、寒さと足の痛さでみんな参っているようだった。なにしろシェルターでは横になれないようで、パイプ椅子の上に座ったまま寝ていたり寒さに耐えている映像があった。

ほどほどにして、三々五々寝る人、起きて毛布にくるまっている人など様々に朝を迎えた。私も12時に家族と連絡がとれて(ここではじめて電話がつながる。以降電話は繋がらない)安心し、翌日どうなるかわからないため、体力を温存するために寝にいった。しかし、まったく寝られない。電話の緊急地震速報がビンビンはいってきていた。揺れもひどい。私は会議室の端で寝ていたが、生まれてはじめて明日自分が生きているのかということを考えたりした。結局1時間半ほど横になっただけで、事務所にまた戻って朝までNHKを見続けた。

緊急地震速報は恐ろしい音で鳴り続ける。朝に向けてどんどん南下してくる印象があった。4時半には、一瞬小田原震源でM6以上というのがあり、これは関東大震災ではとさすがに机に潜った。幸運にも、その地震は空振りだったが、あれはなんだったんだろう。震源はその後新潟と長野に移動したりし、関東を中心にぐるぐる回っていた。

情報がはいった。朝7時に田園都市線が動き出す。(実はメトロは夜のうちに一部動き出していた)8時に山手線が動き出すとのこと。また東海道も東京熱海間、横須賀線は大船逗子間で同じころ動き出すらしい。7時に動くことを決意して、事務所を飛び出した。

外は寒かった。町は死んでいて、ちょうど新年の町のような感じ。
駅で、朝食をとる人たちとは別れて、田園都市線へ。すぐに電車はきた印象がある。渋谷は普段の汚い街からさらに汚くなったようで、朝からごった返していた。阪神大震災の日と同じように、災害の日の雑踏には色がない。あるんだけどモノクロームみたいだ。大船まで帰る人と一緒にひとまず山手線へ。山手線は予想通り大勢の復旧を待つ人達でごった返していた。この時点で7時半だったが、駅員に聞いてみると8時は微妙だという。

ここで、東横線で横浜まででることを判断。振替票をもらって東横線へ。東横線は2本入線しており、後発の普通列車で座っていくことにした。やれやれ。7時半に出発。途中で、足の悪い人に席を譲ったりしたものの(そういえば、普段よりも松葉杖の人が多かった印象がある)、座って横浜までいけたのは奇跡だった。

外はすっかり朝になっており、日差しが眩しい。電車は朝の上りくらい混んでいる。コートのポケットをまさぐると、偶然普段持ってないラジオがあることに気がついた。FMなら聞けるので、FM東京を聞いてみたら、各地の状況がだんだん分かってきた。また原発の被害が大きいようだというのは此処で初めてわかった。

横浜まで来たら、案の定渋谷と同じ混雑。かなりここの通路で夜明かしした人が多かったのではないか。ここでもJRを確認したが、まだ東海道、横須賀、京浜東北(根岸)各線ともに動いていない。東海道があと30分後に来るかもしれない、という状態だったので、再び私鉄へ。京急に向かう。普通電車へ。まあ混雑している程度の、金沢文庫行きに乗り込む。大船の人とは上大岡でおわかれ。金沢文庫へきてから、となりの八景まで乗り継ぎ、八景と逗子のあいだの逗子線へ。逗子線が動いていたのは、本当にありがたかった。途中で家内とショートメールのやりとりができ、駅まで迎えに来てもらった。ここまでで8時45分。長い帰宅の道のりだった。

家に帰ったものの、娘が友人の家にいることがわかり、朦朧とする頭で迎えに行く。その途中で、灯油とガソリンを補給。これは後々考えれば本当にラッキーだった。ガソリンも灯油もこの時確保できたのだ。もちろんその後のガソリン不足のことなど考えもしなかった。16号を下り、追浜まで。16号は安全に走行できた。娘と再会。よかった。案外のほほんとしているようで、地震後すぐに上大岡でパンと水を確保したそうだ。とにかく無事でよかった。

これで家族全員の安全が確保できてやれやれだ。家で食事をして、テレビでの情報収集を始めた。とにかく被害はこの時点で200人くらいの死者だったと思うが、これは拡大するだろうと、阪神の時の経験からも分かっていた。まったく情報が上がらないからだ。そのままその日はテレビを見ながらいびきをかいて寝てしまった。

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